こんにちは。私は中国の留学生として来日した王徽(おうき)と申します。
現在表明榮(ぴょう・みょんよん)先生のゼミ生として授業に参加させて頂いております。
表先生のゼミの課題の中の一つが各自の興味ある都市について調査しその文化や歴史を紹介する内容があります。私は、私の故郷である中国の開封について紹介させて頂くことにしました。
開封市は現在中国河南省東部に位置し、河南省の北東部の都市で黄河がすぐ北を流れ、中国では西安、洛陽、南京、北京と並ぶ最も古い都の一つです。北宋の時代(960年~1127年)に最も繁栄し、当時は東の都「東京」と呼ばれ、人口は100万人を優に超える世界一の大都会でした。604年に即位した隋の第2代皇帝煬帝によって605年、黄河と淮河を結ぶ通済渠(つうさいきょ)を築き、これによって長江から長安に至る運河が貫通しました。基点となる汴州(開封)は通済渠によって江南の物資も運ばれ、中原(華北地方)の経済の中心地として栄えました。それが後の宋(北宋)の首都となります。
特に北宋時代の都として168年間継続した期間は、発展の絶頂期を迎えました。「べん京の豊は天下無し」と言われたほど経済の発展を成し遂げただけでなく、活字印刷、火薬と羅針磐が発明された花を咲かせた時代でした。当時の繁栄ぶりは宋代の有名な「清明上河図」の中にもリアルに伝わってきました。
「清明上河図」は北宋末期の翰林待詔であり、画家としても著名であった張択端の作品とされ、北宋文化の絶頂期・徽宗(きそう)皇帝のために描かれたとされています。全長約5メートル、縦24センチの画面の中に登場する人物814人、牛、ロバなどの動物73頭、馬車など20数輌、船29艘、建物、橋、城門などそれぞれ宋代建築の特徴が見られ、まさに神技の作品です。清明の時節の、都の東京開封府の内外の人士が行楽して繁栄する様子を描いていて庶民の幸せな日常生活が画面に満ち溢れています。上記の図の虹橋(にじばし)は橋脚を使わず、木組みだけで支えられたアーチ型の橋です。かつて開封に実在し、高い建築技術がうかがえる名橋でした。右からくる船がマストをおろし、船首で大声を出して叫んでいる水夫、ひときわ高い酒楼、橋桁から身を乗り出すヤジ馬たち、このように清明上河図には都市の開封に生きるさまざまな職業の人たちが描かれています。汴河(べんが)の流れに沿って、市民の生活が衣食住にいたるまで細かに描かれ、当時の市街図や風俗図として、宋代の都市と生活を生き生きと伝えている絵画的な精細描写の価値とともに、極めて資料的価値も高いものとして評価されています。
しかし、「清明上河図」が描かれ間もない、北宋は金の攻めによって滅ぼされます。このような北宋の絶頂期の繁栄の陰には予想もできなかった恐れしい事態が刻々と進んでいたのでしょう。徽宗自身も金の捕虜として北へ連れ去られました。金へ連れ去られた徽宗は、長く厳しい寒さが続く北の大地で、土壁に囲まれた小さな部屋に囚われ、1135年、北宋滅亡の8年後に徽宗は53歳で亡くなります。
現在の開封は北宋の「清明上河図」のような虹橋、酒楼などの風景は残っていないですが、北宋時代から1000年の歴史のある鼓楼夜市、1049年に建立された開封鉄塔、開封名物の灌湯小龍包子など、有名なものが多い街です。日本の皆さんもぜひご機会あれば、汴河(べんが)の畔の歴史散策を兼ねながら私の故郷開封を訪ねてみることはいかがでしょうか?汴河の畔で目を閉じて耳を澄ませば水鳥の鳴き声と混ざって北宋時代の水夫たちの叫び声が微かに聞こえるかも知れません。
参考資料