はじめまして。明海大学不動産学部教員の兼重賢太郎と申します。私の研究の専門分野は法社会学で、法学系分野の講義(土地開発と法、不動産トラブルと法など)を担当しています。

ところで、昨今(とも限りませんが)、大学改革に関する話題は枚挙にいとまがないようです(例えば、2020年度の大学入試改革、2019年度から発足する専門職大学の新設など)。そこで、今回は、スマイスターの読者の方々のニーズとはいささか乖離しているかもしれませんが、大学教育について、少し考えてみたいと思います。

と、大上段に構えてみたものの、もとより、私は大学教育の専門家ではありませんし、能力的にも、日本全体の大学教育を俯瞰した一般論を展開できるわけではありません。以下の駄文は、あくまでも、現場の一教員がどんなことを考え(悩み)ながら、教育にあたっているか、その一端をご紹介するものです。

「大学全入時代」といわれて

現在、日本には780校の大学があり、学部学生数は約258万人を数えます。大学・短大の進学率は、54.8%を数え、ここ10年間50%以上を保っています。ちなみに、今の大学生の保護者にあたる世代が高校を卒業した時代(約30年前)である1980年代後半は、約30%でした(いずれの数値も、文部科学省『学校基本調査』より)。

この数値から、どこかの大学には入学できるという、いわゆる「大学全入時代」をむかえたことが裏付けられるのかもしれません。高校までの学力(受験学習)を重視して選抜する難関大学を除けば、多くの大学では、入学する学生の学力が多様化しているという現実があります。

「承認」機能としての資格取得支援

明海大学不動産学部の募集定員の半数以上は、AO入試、推薦入試等での募集となっています。これらの入試の選抜においては、不動産学部での学修の意欲の強さを重視しています。これは、大学での学修意欲の強さの表れが、入学後の学生の成長につながると期待しているからです。とはいえ、入学する学生の半数以上は、よくも悪くも、いわゆる通常の「大学受験(勉強)」を経験していません。

大学生の本分が学ぶことにあることに異論はありませんが、現実には、学生の中には、学習・勉強に苦手意識を抱いている者も確かにみられます。彼ら/彼女らは、初等・中等教育のどこかで学習に困難を抱え、受験勉強的なものから限りなくイグジットしてきたようにみえます。

ところで、不動産学部では、1年次・2年次のうちでの「宅地建物取引士」の資格取得に力を入れています。結果として宅建士資格を取得することはもちろん重要ですが、同時に、資格取得のための勉強を通じた学修習慣の確立、「受験勉強」や「合格」の体験を通じた勉学に対する自信の回復(イグジットからの復帰)も、私は重要だと考えます。国家的に位置づけられている資格取得を通じて、学生の勉学面での自己承認要求(自己肯定感)を満たすことができるのではないか、と考えられます。

社会の中堅層の育成と幸福追求の支援を目指して

先に、大学進学率が50%を超えていると指摘しました。しかし、捉えようによっては、まだ半分だともいえるかもしれません。必ずしも難関大学ではない大学の卒業生であっても、社会の中堅層(職業人・市民)として活躍することが期待されているわけです。逆にいえば、まっとうな中堅層を社会に送り出す教育が、大学に求められているのです。

不動産学部では、その教育にあたって、不動産学の専門的な知識を身に着けてもらうことはもちろんですが、とりわけゼミなどを通じて、他者と協働していくための説明・議論の仕方、客観的な情報・知識へのアクセスの仕方なども、身に着けてもらえるように意識しています。というのも、知識はやがて陳腐化しますが、議論などの作法・経験は汎用性が高いと思われるからです。このことが、まっとうな中堅層の育成にもつながるのではないかと考えられます。

私も、ゼミなどで、難し目の問いかけ(必ずしも正解があるわけではない問い)をすることがありますが、それに対し、学生たちが自分なりに懸命に応答しようとする、あるいは議論しようとする姿勢をみると、学生たちの成長を実感せずにはいられません。

加えて、私自身としては、本学部での教育が、個々の学生それぞれの幸福追求(憲法13条の実現!)(願わくば、「世間的に名の通った企業に就職することが幸福である」という一般的な価値観とは異なる幸福の追求にも)の一助となることも願っています。

「悦ばしき学問」

私が本学に赴任した際、最初に担当した講義に対する感想の中に、「先生は講義をしていて楽しいですか」というものがありました。私は、「ハッ」とさせられました。というのも、その講義では、内容のみを伝えることに終始し、その背後にある何かを伝えきれていなかったのではないか、と考えさせられたからです。

私自身の学生時代を振り返ってみると、好きだった講義のタイプは、教員の教え方のうまさや話芸のうまさが感じられるタイプであるよりも、「この先生は本当にこのテーマが好きなんだ」と感じられるタイプ、つまり、教員の講義テーマに対する(「学問=知」に対する)一種の「愛」が感じられるタイプでした。もちろん、私自身の個人的な想いを一般化することはできませんし、本学の学生の多くが、役に立つ知識の習得や実践的な学修を望んでいることも承知しています。

それでもなお、人類が脈々と受け継いできた「学問=知」を探求することの楽しさ(もちろん、困難さも常に付いて回りますが)、「知への愛(フィロソフィー)」を少しでも伝えられれば、と私はついつい考えて(夢想して)しまうのです。これこそが、専門学校などとは異なる、大学の存在意義ではないかと。。。

「学生は講義の内容はいずれ忘れてしまうが、案外、教員の熱意や想いというものはそれなりに覚えているものだ[大意]」という言葉を、どこかで聞いた/読んだ覚えがあります。私としては、この言葉を胸に刻みつつ、今後とも、教育にあたっていきたいと考えています。

以上、とりとめもなく述べてきましたが、上記の駄文は、居神浩氏の諸論攷(例えば、「ノンエリート大学生に伝えるべきこと」『日本労働研究雑誌』602号、2010年など)に触発されています。関心のある向きは、是非、ご一読をお勧めいたします。

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最後までご覧下さり、誠にありがとうございました。
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