(画像=写真AC)
落語の登場人物には役回りや性格で決まった名前がある。
勘当された放蕩息子はたいてい「若旦那」だし、その話し相手は「丁稚」だ。バカは「与太郎」という名前で、大工の棟梁は「政五郎」と相場が決まっている。
「能天熊にガラッ八」という言葉がある。
乱暴者の江戸っ子の職人熊五郎と、同じく江戸の職人でおっちょこちょいの八五郎のことだ。どちらもガサツなイメージの人物として語られている。
古典の演目「粗忽長屋」は、この熊五郎と八五郎の話だ。
浅草にお参りに来ていた八五郎は、人だかりを発見する。分け入っていっていくと、行き倒れを囲んで人が集まっていた。八五郎が死人の顔を見ると、同じ長屋に住んでいる熊五郎だと言い出す。今朝、熊五郎と会ったとき身体の具体が悪いと言っていたことを思い出したのだ。しかし役人が、この死人は昨晩行き倒れたから、熊五郎とは別人だと言う。それでも聞かない八五郎は、本人を連れてくると言い張り、長屋へ帰っていくのだった―。
五代目柳家小さんが得意としたこの噺は、熊五郎と八五郎という2人の粗忽者がそれぞれ異なったキャラクターで演じられている。お互いどこか抜けているため会話がかみ合わない。なかなか言葉が出てこなかったり、言い間違えのせいで話が進まない。知らない言葉が出てきても「知ったかぶり」で済まそうとしたりする。など、聞いていて面白い。熊五郎が、八五郎の説得によって自分が死んだことを信じ、死体を取りに行くシーンは一番の盛り上がり所だ。
しかし、よくよく考えてみるとその行き倒れが本当は誰だったのか分からない。『人生を味わう 古典落語の名文句』(PHP文庫)において立川談慶が「この噺、まさにドッペルゲンガーのようなネタだ」と述べている。自分の死体の話を聞き、そっくりな(厳密には似ていない)死体を実際に目の当たりにすると、本人はすぐに己の死を許容する。という、少しおかしな世界観があり、死が身近な存在であるような話なのだ。
もとより、落語は生と死の境界線があいまいだと感じることが多い。死は生のすぐ隣にあり、死すらも生の延長にあるような錯覚にとらわれるのだ。
「粗忽長屋」、演目とは裏腹に、長屋の下りはほとんどない。そそっかしい二人がそこで暮らしていたかと思うと、なんだかそちらの話も聞きたいものである。
ご近所さんが家族同然の付き合いだった時代の話だ。