■書名:『つげ義春コレクション 李さん一家/海辺の叙景』に収録
■著者:つげ義春
■出版:筑摩書房
■定価:760円+税
■発表年:1967年
かつて住んだマンションで「おはようございます」と声をかけたら、「はあ…」と返してくる管理人がいた。
いつ挨拶しても「はあ…」。
―「おはよう」には「おはよう」だろう。
掃除や連絡事項など管理人の仕事はきっちりする人だったので、その言動の中で挨拶だけがおかしいのだ。出かけに会ってしまうと、なぜか一日中、気になってしまう。不思議な人だった。ご近所トラブルとは言えないまでも、言動になんだか違和感を感じる人が近所に一人や二人はいるだろう。記憶をたどれば、自宅だけでなく職場にも学校にもいた。
―それでもこんな奇妙な人はいなかったな。
カルト的な人気をもつ漫画家つげ義春の短編「李さん一家」は
まだコヤシの臭いの残る郊外のこのボロ家に引越して来たのは昨年の初夏だった
という主人公の独白から始まる。
緑あふれる一軒家に引っ越した青年はある日、鳥と会話ができるという不思議な能力を持つ李さんと出会う。李さんは鳥から聞いた明日の天気を教えてくれる。その内容はラジオの天気予報と全く同じで、本当に鳥語が話せるのかもインチキくさいものなのだが、なぜだか信じ込ませる説得力が、李さんにはある。その独特のムードに飲まれてしまった主人公は、なぜか2階に李さんとその家族を住まわせてしまう。
李さん一家は妻と子供二人の四人家族で、どこか浮世離れした雰囲気を持った人ばかり。
妻は目と口が大きいグラマーな女性だが、表情が乏しく喜怒哀楽がわからない。子供は四歳の姉と弟の二人だが、栄養失調のように痩せていて、親譲りなのかこちらも表情が乏しく、子どもらしいところがない。大黒柱である李さんも怠け者で定職がなく、一家は貧乏で食べるものにも苦労しているからか時々、主人公が育てているキュウリをくすねたりしている。
ある日などは帰宅してみると李さんと奥さんが勝手に、主人公の風呂に入っている。
全く主人公は、土足で入り込んできた李さんに、すっかり振り回されてしまう。
得体の知れない奇妙な家族に寄生され、静かな生活が脅かされていく、本来は気味が悪い話なのだが、それでも漫画全編に暗いところがない。どこかさめた主人公の一人称がユーモラスに響く。
物語は唐突に終わる。
後に続編も書かれた作者の代表作の一つで、この作品をモチーフにしたパロディが生まれた他、さまざまな解釈がされる作品だ。
再読してみればコマ割の見事さ、画面構成の妙に意識がいく。
無表情な李さん一家とのコントラストが際立つ。
あの管理人さんの気の抜けた声のように、脳裏のごくごく片隅に、いつまでも静かに残る作品だ。
敬称略
(編集部O)