(画像=リビンマガジン Biz編集部撮影)
8月29日はニッカウヰスキーの創業者である、実業家・竹鶴政孝の命日だ。
「日本のウイスキーの父」とも言われる竹鶴政孝は、広島県賀茂郡郡竹原町(現・竹原市)の三大塩田地主のひとつである、竹鶴家の三男として1894年に生まれた。竹鶴家は製塩業だけでなく、酒造業も手がけ、政孝自身も幼少期から酒造に親しんでいたという。
日本にウイスキーが伝わったのは19世紀のこと。当時、欧米の模造品として作られていたものの、純国産のウイスキーはつくられていなかった。そこで、単身スコットランドへ向かった政孝は、ウイスキーづくりを徹底的に研究。製法を学ぶとともに、スコットランド人の女性、リタと出会い国際結婚する。この2人の逸話は、NHKの連続テレビ小説「マッサン」のモデルとなったことで知った方も多いだろう。
こうして、ウイスキーの醸造技術を持ち帰った竹鶴政孝は、度重なる困難を乗り越えて、ついに1929年にジャパニーズ・ウイスキーの発売を実現した。その後、のちにニッカウヰスキーとなる大日本果汁を設立。品質にこだわりながらウイスキーの製造を行ない、日本のウイスキーの歴史を作り上げて行った。そして、1979年のこの日、東京都にある順天堂大学医学部附属順天堂医院で永眠。85歳だった。
かつてブームだった?!地主の副業型酒造業
竹鶴家が製塩業を営む傍で、酒造業も手がけていたことからわかるように、地方の地主が土地を有効活用して、副業として酒造りをすることは江戸時代からあった。
農業がストップする冬季に労働を必要とされなくなる農民を雇い、小規模な酒造業を営むことで、余った小作米とともに労働力を有効活用するという仕組みで酒造業が機能していたようだ。
北関東、東北地方を中心に地主副業型の酒造業が盛んだったそうだが、酒造りへの投資や、高品質な酒を作るにはコストもかかり、ノウハウも必要となることから次第に淘汰されていったという。
現在なっては、本業として酒造業を営む酒蔵がほとんどだ。これから余った土地を有効活用しようと酒造業に参入する場合、酒造免許が必要だ。免許は15万円程度を支払い、書類の用意と工場の確保をすれば取得できるが、ウイスキーをつくるには、熟成期間が3年以上も必要で、初期のコストが高くなる。
こういった困難を考えると、地主が副業として行う酒造りを抜けて、本格的な酒造業に参入した竹鶴政孝の熱量は計り知れないものだったと想像できる。
(敬称略)