(画像=リビンマガジン Biz編集部撮影)
1945年6月7日は、日本を代表する哲学者・西田幾多郎(にしだ きたろう)が亡くなった日だ。西田幾多郎は1911年に発表した著書『善の研究』が有名で、日本における哲学思想に多大な影響をもたらした人物である。今回は彼の生涯とともに、西田哲学の誕生にゆかりのある場所を紹介していきたい。
西田幾多郎は1870年(明治3年)、石川県の中心に位置する河北郡(現在のかほく市)に生まれた。子供時代から勉強熱心で、日が暮れるのも忘れるほど勉学に打ち込んでいたという。地元石川の第四高等学校へ進学した・同級生にのちの宗教家となる鈴木大拙がおり、その後、長年に渡って親交を持った。禅に打ち込むようになったのもこの頃で、20代後半から10数年間にわたって修行とともに仏教思想を学んでいったという。
その後、40歳で京都に移り京都帝国大学の助教授に着任するまでは、地元石川の学校の他に、山口や東京の学校を転々としながら教鞭をふるっていた。西田の代表著書である『善の研究』は、41歳のときの助教授時代に出版されたものだ。それまで哲学研究といえば、西洋の哲学を持ち込み、読み解く作業に明け暮れていたが、西田が打ち出したのは自らの禅体験を基にした東洋思想と、ヘーゲル的な西洋思想の融合を試みた独自の哲学だった。これにより京都学派が生まれ、その後も次々と西田哲学を発展させた著書を発表されるようになった。
ところで、京都の銀閣寺付近から永観堂付近にかけて続く散歩道「哲学の道」をご存知だろうか。ここは、西田幾多郎が思索を巡らすために好んだ場所だ。哲学の道には西田の歌碑も残されている。それが「人は人 吾は吾也 とにかくに 吾行く道を 吾はゆくなり」という歌である。西田が晩年に詠んだものだそうだ。
西田幾多郎の人生は、学問的には大成しながらも、私生活では身内の病気や死など苦難も多かった。そんな西田の苦しみを包み込み、思索の世界へ導いたのが海だった。地元や職場であった石川の加賀や能登の海はもちろん、京都大学教授を退任後、移り住んだ鎌倉の七里ヶ浜の海を愛していたという。
こうして75歳で生涯を終えるまで、西田幾多郎は思索に耽りながら鎌倉で過ごしていたそうだ。「人が環境をつくり、環境が人をつくる」という西田の名言にあるように、住んできた場所や環境と自分自身との関係を改めて見返してみてはいかがだろうか。
空き家と保存
西田が50代の頃に住んでいた旧宅(京都市左京区)、主を失ってしばらく空き家となっていた。偉大な哲学者が思索に暮れた歴史的な遺構として、ながらくそのままにされていたが、ついに2016年に解体されることとなった。しかし、京都学派の始祖の面影が消えることを惜しむ声が、京都大学の関係者など有志からあがり、一部を移転・保存された。
なかでも西田の書斎や、ウロウロと歩きながら思いにふけった廊下は京都大学の総合博物館に納められている。さらにGoogleマップでも仮想体験できる。
全国的に空き家が増加している日本だが、このような保存の問題が増加していくだろう。