(画像=リビンマガジン Biz編集部撮影)

天気は我々の日常生活と切っても切り離せない。だから、天気予報は、気圧、気温、湿度をはじめ、風向、風速、降水量、降雪量、積雪、日照時間、日射量、雲、視程、大気現象等、あらゆる角度から気象観測が行い、それらのデータを分析したものが発表されている。

そんな気象観測のはじまりは、今から143年前にさかのぼる。

気象記念日は、東京気象台(現在の気象庁)が1875年(明治8年)に気象業務を開始したことを記念して、1942年に制定された。気象庁の前身である東京気象台は、東京府第2大区溜池葵町(現在の港区)の内務省地理寮構内に設立され、1875年6月に、地震観測とともに気象観測を開始した。ただし、気象庁によると1日3回の気象観測が始まったのは、正しくは6月5日だという。

気象台のある内務省地理寮構内は、現在の東京都港区虎ノ門にあった。当初、1日3回の気象観測を担当していたのは、ジョイネル(H.B.Joyner)というイギリス人だった。ジョイネルは、1870年に京浜間鉄道布設のために来日し、翌年に工部省測量司に入省した、いわゆるお雇い外国人だった。

ジョイネルが安全な鉄道運行と工事中の安全のためには、正確な気象観測の必要性があると考えた。観測の必要性を測量司に強く申し入れ、1873年の5月に気象台を設けることが決まったという。

我が国初の本格的な気象台には、設置の仕掛け人であるジョイネル自らが初代の観測担当として勤務した。この当時の観測は多忙を極めた。ジョイネルは1日3回の気象観測をたった一人でこなすだけではなく、地震があった時には土蔵の中に設置された地震計まで飛んで行き震度を記録するなど、気象観測に情熱を傾けた。気象観測開始後から3ヶ月を経た9月からは、日本人5名が伝習生となり、徐々に観測に加わるようになっていったという。ジョイネルは満期解雇となる1877年まで気象観測と人材育成に尽力したそうだ。

その後、ドイツ人エンジニアのクニッピングが毎日午前6時の気象電報を全国から収集できるよう整えたことにより、1883年からは天気図が作成されるようになった。

このような、外国人技師たちの尽力と情熱により、近代日本の気象観測史は作られていったのだ。

気象と災害 復興住宅

気象観測の発展によって経済活動の発展や、公共交通の安全性が高まった。また台風や地震など災害時の避難勧告などで、多くの人名を救うために重要な役割を担っている。

それでも、大雨による土砂崩れなど大規模な災害が発生すると、多数の住宅を失う人が現れる。避難所での生活は衛生面や防犯面、プライバシーなど不便な暮らしが避けられない。そのため復興住宅とよばれる仮設住宅が建設される。

日本におけるプレハブ住宅の建設技術は非常に高く、短期間で高品質な仮設住宅をつくるこができる。それでも近年では、日本中で賃貸住宅の空室や空き家などが多数ある。そのため、新たにつくるより早い空室を活用して、被災者に住居を提供する手法も試みられている。東日本大震災ではこうした空室を「みなし仮設」とし、家主に支払う家賃を補助するかたちで、被災者に住まいを供給した。

東日本大震災では従来型のプレハブ建築による仮設住宅は42,951戸、地域の工務店が建築した仮設住宅9017戸、みなし仮設住宅67,877戸となり、みなし仮設住宅が約半分の割合という結果となった。

しかし、みなし仮設制度は法制化がされているわけではない。そのため家賃の上限を巡って食い違いが起きたり、いち早く賃貸住宅を見つけた被災者が家賃補助までに時間がかかったりするなど混乱も多い。

気象観測が進めど、災害は必ずやってくる。

平時のうちに、備えを考えるべきなのではないだろうか。

 
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