(画像=リビンマガジン編集部撮影)
1899年(明治32年)5月25日、日本で初めて食堂車が連結されて走ったことが由来となり、「食堂車の日」とされている。走ったのは山陽本線(当時・山陽鉄道)の京都から三田尻駅(現防府駅)までの間の急行列車だ。
当時の食堂車は一等、二等車の乗客専用で、メニューは洋食のみだったようだ。
列車は揺れが激しく、快適とは言えなかったようであるが、「列車に乗って景色を見ながら食事をする」というのはとてもモダンで贅沢なことで、庶民の憧れでもあったという。
最初、食堂車の運営は山陽鉄道が担っていたが、接客や給仕に知見がある神戸「自由亭ホテル」が請け負うようになった。
官営鉄道(国鉄)に食堂車が連結されたのは、それから2年後の1901年(明治34年)12月15日だった。新橋から神戸駅までの間の急行列車で提供され、このとき食堂を任されたのは養殖の草分けとして知られた「精養軒」だった。ここでもやはり食堂車は一等、二等車の乗客専用で、三等者の乗客には縁のないものだったという。
明治39年になると、三等急行列車にも食堂車が連結され、車内で調理された温かい食事が急行列車の乗客全てが食堂車を利用できるようになった。
太平洋戦争になると戦況の悪化とともに、食堂車も姿を消した。戦後、経済復興していく中で、昭和24年に東京・大阪間をむすぶ特急列車に食堂車が連結されるようになる。その後、昭和30年代になると主要な特急列車には食堂車が連結し、長距離列車での楽しみとして認識されるようになっていった。
しかし、昭和から平成へと時代がうつり変わる頃には、より豪華な設備をもつ食堂車なども誕生した一方で、全体として食堂車は徐々に姿を消していくことになる。
そして2000年3月には、新幹線から食堂車が姿を消した。理由としては、列車が高速化したことや、新幹線のような車両数の多い列車では、座席から食堂車まで列車内を移動するのが容易ではないということなどが挙げられる。
(画像=リビンマガジン編集部撮影)
このような理由から、「食堂車を利用する」というよりも「駅弁を買ってから乗車する」というニーズが増えていったようだ。
(画像=リビンマガジン編集部撮影)
現在では、なかなか味わうことができなくなってしまった食堂車での料理だが、東京 神田駅北口改札を出てすぐのところにある「神田鐡道倶楽部」で味わうことができる。同店は列車食堂を営業していた、株式会社日本レストランエンタプライズが経営するレストランだ。
店内は貴重な鉄道調度品が置かれ、映像と音が流れる。そして食堂車でもおなじみのハンバーグやカツカレーなどが楽しめる。鉄道ファンならずとも、昔懐かしさに心が踊ることだろう。
鉄道ビジネスと不動産
さて、食堂車が誕生した背景には乗客獲得争いがあったといわれている。
山陽本線が結ぶ大阪~下関間は海のルートである瀬戸内海航路があり、競争は熾烈を極めたという。程度の差はあれど、この動きは全国的にも顕著で、安全性を度外視した速度競争につながった。
鉄道業を乗客の運賃だけに頼ったビジネスから発展させたのが阪急電車を始めとした阪急グループの創始者である小林一三だ。
小林一三は「乗客は電車が創る」と考え、鉄道の沿線に住宅地や百貨店、宝塚劇場に代表される遊興場などをつくった。沿線の人口を増やすことによって、運賃だけでなく所有する不動産から収入を得るビジネスにスケールアップさせたのだ。
今では鉄道と不動産開発は切り離すことのできない関係にある。