(画像=リビンマガジン Biz編集部撮影)
1903年(明治36年)5月24日、日本初のゴルフ場である「神戸ゴルフ倶楽部」がオープンしたことにちなんで制定された。
1868年に21歳で神戸に上陸した、アーサー・ヘスケス・グルームは日本の士族の娘と結婚し、神戸元町にあった善照寺で暮らした。彼は貿易商として成功し、多趣味であったことも伝えられている。
グルームは日本を愛し、中でも六甲山の手付かずの豊かな自然を愛した。雄大な眺望は彼を魅了し、山荘を建てるほどであった。グルームは友人たちを誘い、避暑地としての六甲山の魅力を広めた。そのため、彼は「六甲の開祖」といわれるようになったという。
多趣味でスポーツマンでもあったグルームは、仲間との交流を深めながら楽しむことができるゴルフ場を、彼がこよなく愛する六甲の地に作る決心をしたのだった。1898 年(明治31年)のことであった。
このとき、グルームは50歳を過ぎており、実はゴルフの経験もなかったのだそうだ。
それでも持ち前の行動力を発揮し、土地を借り、仲間の協力を得ながら、自ら鎌で草を刈り、岩を掘り起こすなど手作業での苦労を重ね、3年間を費やして1901年(明治34年)に4ホールを完成させた。
最初は仲間と楽しむためだけの小さなゴルフ場だったのだが、評判が広がり、来場者が増えていった。
そして、9ホールが完成する頃の1903年(明治36年)5月24日、日本初のゴルフ場をオープンさせたというわけだ。翌年にはさらに9ホールが増え、18ホールのコースが完成した。
不動産バブル経済とゴルフの関係
戦後になると、経済成長とともにゴルフ人口は急速に増え、日本中にゴルフ場が作られることとなる。80年代に入ると、ゴルフ場が募集する会員権が投機の対象となり、急騰する。
本来ならばゴルフ場開発にともなう資金は長年にわたって回収するものだ。しかし、会員権が高騰したため、開業時に初期投資の多くが回収できるようになった。
1987年にはリゾート開発法(総合保養地域整備法)が施行され、ゴルフ場開発がやりやすくなったこともあり、ゴルフ場開発は爆発的に増えることとなる。
当時を知るものは「田舎の僻地の山林オーナーが何億の金を積まれても、もっと欲しいと断っていた。日本中が土地とカネに狂った時代」と振り返る。
森林伐採も深刻になり、芝育成のための農薬による水質汚濁も問題視された。
グルームの手によって、仲間たちと六甲の自然を楽しむために始まった日本のゴルフは大きく変わってしまった。