5月18日は「南方熊楠(みなかた くまぐす)の誕生日」だ。江戸時代の終わり、1867年(慶応3年)に和歌山県に生まれた南方熊楠は、日本を代表する博物学者のひとりである。また、生物学者、民俗学者としての一面も持つ。驚異的な記憶力を持ち、英語をはじめ、スペイン語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ポルトガル語、中国語など、18ヶ国語の言語を操ったと言われるほど語学も堪能であった。

現在の東大赤門 (画像=リビンマガジン Biz編集部撮影)

南方熊楠は、幼少期から自然に対する好奇心が旺盛で、昆虫や植物の採集に夢中になる日々を送っていた。明治の新しい教育制度に則って新設された和歌山中学校(現在の桐蔭高校)に入学した熊楠は、生涯恩師の鳥山啓と出会う。鳥山は西洋の博物学を学び学問の普及に努めた人物で、熊楠に多大な影響を与えた。

その後、現在の東京大学、大学予備門に入学。同級生には、正岡子規や夏目漱石らがいたという。しかし、熊楠は授業に興味を覚えず、学校ではなく、校外の上野の国立博物館や小石川大学植物園などに通いつめるようになる。考古遺物や鉱物、生物などの採集もしていたそうだ。

サンフランシスコの海 (画像=リビンマガジン Biz編集部撮影)

学校に行かず、興味の赴くままに行動した結果、落第してしまう。それを機に渡米を決意し、まずはアメリカのサンフランシスコにたどり着いた。その後、シカゴやミシガン州など各地で菌類の採集活動を行う。

アメリカで6年間の標本採集した熊楠は、大西洋を横断してイギリスへ渡り、8年間を過ごす。そこで書いた論文が、権威ある科学雑誌「ネイチャー誌」に続々と掲載された。その数はなんと50編もあった。また、大英博物館にも出入りし、「日本書籍目録」の編集への協力や、全52冊の「ロンドン抜書」の作成などに尽力した。

こうして日本のみならず、世界でも活躍した熊楠は、和歌山に戻った後も、標本の採集や民俗学研究に明け暮れた。その探究心は幅広く、博物学者としてのみならず、細菌学者、生物学者、天文学者、民俗学者、考古学者といったさまざまな研究者の顔を持っていた。

このように天衣無縫で魅力に満ちた熊楠の生涯は、幾度となく小説や映画化もされている。劇作家の小幡欣治は熊楠を主人公に家族との関係性を描いた「熊楠の家」は戯曲の傑作として、高く評価されており。度々、再演がなされている。

環境保護活動の先駆者として後の不動産開発に与えた大きな影響

また環境保護活動家の嚆矢としても知られている。熊楠は1911年前後に神社合祀反対運動と、1936年の故郷・和歌山神島の天然記念物指定運動と2度にわたり、国や地域の大規模開発へ異を唱えた。熊楠は豊富な人脈を駆使し、政界や学会などに働きかけながら、ジャーナリズムに訴えかけた。

やがて、本格的な市民運動として組織されるほどになった。当時はまだ環境保護を理由にした市民運動はほとんど前例がなかったが、小さな声を集めて国や財界などの巨大な機構にあらがう姿勢は、環境保護にとどまらずその後の市民運動のプロトタイプと評価する声もある。

今では大規模な不動産開発においては、環境に与える影響を予測、評価する環境アセスメントは当たり前になっている。

生誕150年を過ぎた今、西欧と東洋の知に貢献した功績のすばらしさと、知への探究心、人となりが改めて注目され、2017年には国立科学博物館では企画展も開催された。

(敬称略)

 
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