10月3日は脚本家「花登筐の亡くなった日」である。

昭和を代表する脚本家で、上方喜劇をけん引した花登筐(はなと こばこ)は1983年の本日、亡くなった。55歳だった。

テレビ草創期のスター脚本家であった花登は、『番頭はんと丁稚どん』や『細うで繁盛記』といった、大阪の商人を主人公とした脚本を多数執筆した。

出身地の滋賀県大津市で劇団を結成し、役者として芸能の道をスタートさせる。その後、作家を目指し、ラジオ局へ脚本を持ち込むようになる。東宝と契約を結びラジオ作家として活動するようになった。

白黒テレビ (画像=写真AC)

テレビデビューとなった作品は、大阪テレビで放送していた『やりくりアパート』だ。

大阪の下町にあるアパート「なにわ荘」を舞台にしたコメディで、大村崑や芦屋雁之助など、主に劇場で活動していた若手コメディアンを多数起用し、人気を博した。花登を人気脚本家にした作品でもあり、若手コメディアンの出世作としても知られる。

戦後の大阪は、文化住宅と呼ばれる木造2階建てのアパートが多く建てられていた。当時の世の中も、ドラマと同じように、貧乏ながらも仲間と共に暮らす人が多かったのではないだろうか。親近感からチャンネルを合わす人も多かった。こうした市井の人を主人公に、ドラマを作るのも花登の代名詞だった。

古いアパート (画像=ぱくたそ)

その後は、劇団を主宰するなど、後進の育成に力を注いだが、1983年、北海道で執筆中に体調を崩し入院、同年肺がんのため死去する。

人気作家であり、速筆として知られた花登は、最盛期で月に原稿用紙2,000~3,000枚分の脚本を執筆し、生涯で書いた脚本は6,000本を超えるという。

さらに、大阪から東京間を移動する新幹線の車内で1時間のドラマを書き上げたといわれる。「新幹線作家」や「カミカゼ作家」とも呼ばれていた。

30歳で脚本家デビューし、55歳で亡くなるまで25年。新幹線のようなスピードで駆け抜けていった生涯だった。

敬称略

 
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