9月28日は安田財閥の創始者「安田善次郎が亡くなった日」だ。
幕末から、明治にかけて、金融・財界に対して絶大な権力を誇った安田善次郎は1921年の本日、亡くなった。82歳だった。
安田は、玩具屋から両替商に転じ、そこから銀行、損害保険、生命保険、不動産会社など様々な会社を設立し、成功させていった。
自ら「守銭奴」と称していたが、自ら関わる事業経営を減らしていった後は、事業支援に力を注ぎ、特に同郷の浅野総一郎の事業には支援を惜しまなかった。そして、帝国ホテルや東京電力の前身である、東京電燈会社の設立に貢献した。
安田講堂 (画像=街画ガイド)
安田は他にも、公益事業や慈善事業にも力を注いだ。
とみに知られるのは、東京大学の安田講堂だろう。数々の歴史の舞台となった日比谷公会堂も安田の寄付で作られた。
安田の名言に「五十、六十は鼻たれ小僧 男盛りは八、九十」という言葉がある。
そんな男盛りの82歳の折、神奈川県大磯町ある安田の別邸・寿楽庵で国粋主義者である朝日平吾に殺害される。亡くなった時の総資産は2億円ともいわれる。当時の国家予算が15億円だったと聞くと、その富豪ぶりが見て取れる。
寿楽庵は、先述した浅野総一郎から譲り受けた別荘地だ。
大正4年に、別荘が焼失し、それから2年後に再建された建物が寿楽庵である。
しかし、関東大震災でまたも倒壊の憂き目にあう。
絢爛豪華な施設で、敷地内には、母屋と経堂、持仏堂などを備えていた。
現在、再建された母屋は平屋建ての建物で大正6年当時の内装、間取りを忠実に再現したという。
現在は、安田財閥系の安田不動産が管理している。安田不動産の会合などでも、しばしば利用されているという。
多くの寄付をおこなった安田だが、名声を得るためのものではなく、実際に世間にはあまり知られていなかった。
安田講堂も死後、そう呼ばれるようになった。