9月26日は哲学者「三木清が亡くなった日」だ。
今年で生誕120年を迎えた三木清は1945年の本日、亡くなった。48歳だった。
兵庫県の裕福な農家で育った三木は、中学卒業後、単身上京し、第一高等学校(旧制一高)に進む。
そこで、日本を代表する哲学者西田幾多郎の『善の研究』を読み、何を専攻するか決めかねていた三木を哲学の道へ進ませた。
京都大学を卒業後、哲学の総本山であるドイツへ留学する。
帰国後は、大学で教鞭をとり、哲学思想を深めていく。
さらに、親交の深かった岩波書店の創業者である岩波茂雄と共に、「岩波新書」の立ち上げに尽力する。
1945年に、治安維持法の容疑者をかくまった、との疑惑で、検挙・拘留される。
豊多摩刑務所に身柄を送られるが、刑務所の環境が劣悪であったため、感染症の疥癬(かいせん)に罹り、独房で死を遂げた。
この三木の死をきっかけに、戦争終結後、GHQが治安維持法を撤廃したとされている。
独房 (画像=pixabay)
48年という短い生涯の中で、膨大な著作を残した三木だが、今でも読まれ、ロングセラーを続ける名著に『人生論ノート』(創元社、1947年)がある。
「怒り」「嫉妬」「孤独」「成功」という、誰もが抱える問題に、哲学的な視点から光を当てて書かれたエッセイだ。その『人生論ノート』に、こんな言葉がある。
「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の『間』にあるのである」。
一人で本を読んでいても孤独とは感じない。しかし、学校など大勢の中で一人だと孤独を感じてしまう。
一人でいること、そのものは孤独ではない。
たくさん人がいる中で、誰一人として自分と関りを持とうとしない、そのことこそが孤独である。
自分と他者の間にだけ孤独が潜んでいると、この言葉は伝えている。
そんな、「孤独」について思想を巡らしていた三木だが、家庭は温かいものだった。
早くに妻を亡くした三木は、一周忌で幼い愛娘へ宛てて、『幼き者の為に』という文章を書いている。
そこにある、妻へ宛てた文章は、読む者の胸を打つ。
「私は今後私に残された生涯において能う限りの仕事をしたいものだ。
そしてそれを土産にして、待たせたね、と云って、彼女の後を追うことにしたいと思う。」
三木には帰る場所、家庭があったのだ。
それは、孤独とはかけ離れた存在だった。
三木は独房のうちに孤独の死を遂げたように思うが、三木の言葉を借りるなら、独房での彼は孤独ではなかったのだ。
敬称略