9月22日は刑事「平塚八兵衛の生まれた日」だ。
数々の難事件を解決した昭和の敏腕刑事である平塚八兵衛は1913年の本日、生まれた。
警視庁捜査一課に入ると力を発揮し、執念の捜査とすさまじい取り調べで必ず犯人を自供に追い込む敏腕刑事となった。ついた異名は「落としの八兵衛」で、警察関係者以外にも、その名が知られるほどだった。
平塚が在任中に送検した殺人事件は124件にも上り、数々の勲章を受け取っている。その功績を認められ、無試験で警視まで昇進したというのも、平塚の異能を際立たせている。
川崎市麻生区に自宅を構えていた平塚宅には、新聞社の夜回り記者がこぞって現れた。警察署では聞くことのできない、捜査情報を入手するためだ。しかし、平塚は新聞記者嫌いで有名だったため、追い返されたり、居留守を使われたりなど、一苦労だったという。時には平塚自身が背中を向けたまま「今日はいないですよー」など、人を食ってかかったという。
名うての新聞記者でも「落としの八兵衛」を落とすのは、やはり一筋縄ではいかなかったようだ。
現在、平塚に関しては、毀誉褒貶ない交ぜになった評価がなされている。数々の難事件を解決したのは事実だが、担当した「帝銀事件」はえん罪の可能性が指摘されており、「三億円強奪事件」では初動捜査の誤りから迷宮入りさせてしまったとのそしりを受けている。
平塚はこんな言葉を残している。
「俺達には、100点か0点しかねえんだよ。80点とか90点とか中途半端な点数は刑事にはねえ」。
また「刑事という仕事はゼニカネじゃねえ」という言葉もとみに有名だ。世間の機嫌を伺う中途半端な刑事ではなかったことは間違いない。
こんなエピソードもある。
誘拐殺人事件で平塚に検挙された犯人は、拘置所のなかで自らの罪を深く反省した。死刑執行前には「真人間になった」と看守に向かって、平塚に宛てた伝言を残したという。それを伝え聞いた平塚は、荼毘に付された犯人の墓参りに赴いた。
そこで犯人が先祖代々の墓に入れてもらえず、小さな盛土に屠られた様を見て、その場に泣き崩れたという。「罪を憎んで人を憎まず」を地で行く、刑事だったのかもしれない。
敬称略