9月15日は実業家「土光敏夫が生まれた日」だ。

昭和を代表する財界人で、数々の企業再建に貢献した土光敏夫は1896年の本日、岡山県で生まれた。

東京高等工業学校(現・東京工業大学)機械科を卒業後、東京石川島造船所(現・IHI)に入社する。石川島芝浦タービン(現:IHIシバウラ)に出向後、猛烈な働きを見せ、経営難に陥った本社の社長に就任する。ここから、土光の企業再建劇場が始まる。

徹底した経費削減と生産性の合理化を図った。さらに、朝鮮戦争の特需により、業績は上向きで伸びていったという。

次は、これまた経営難に陥っていた東京芝浦電気(現・東芝)の再建を依頼され、社長に就任する。東芝では、上層部と下部の意見交換を活発に行わせ、社内組織の改革を打ち出し社員のモチベーション上昇に力を入れた。東芝も再建に成功させ「ミスター合理化」と呼ばれるまでになる。

そんな、大企業の社長を歴任し、再建に貢献した土光だが、徹底的に合理化を図る、自身のビジネススタイルと同様に、生活も最低限度までそぎ落としていた。

自宅は横浜市にあり、30坪ほどの一般的な木造一軒家で、大企業の社長には似つかわしくない古家だった。歯ブラシとコップは50年間同じものを使い、最低限の生活費以外はすべて、母親が開校し、死後、土光が理事長を務めていた橘学園に寄付していたという。

NHKに夕食の風景が映し出された際、メザシに玄米、菜っ葉、みそ汁というメニューにより「ミスター合理化」から「メザシの土光さん」という名前が定着する。

メザシ (画像=Photo by (c)Tomo.Yun)

1954年に、土光が造船の汚職事件に巻き込まれ、逮捕された時に、検察官が家宅捜索のため自宅へ向かうと、企業の社長とは思えない家の佇まいに驚いた。

そこでバス通勤しているのを見て、検察官は、土光の無罪を確信したという。

土光は、1988年に老衰のため死去した。91歳であった。

合理化と経費削減で再建を果たした土光だが、どの社員よりも朝早く、夜遅くまで働いたという。質素な生活からくるバイタリティがそうさせたのだろうか。

敬称略

 
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