7月9日は「後楽園ゆうえんちがオープンした日」だ。
「もはや戦後ではない」と経済白書がうたった。戦後復興から経済成長の時代である。
全国各地で、大型の遊園地やレジャーランドが続々とオープンしていき、一般庶民も娯楽にお金を使うようになっていった。
当時、欧米風の公団住宅が建設され、郊外にマンションや一戸建てを持つ家庭が憧れだった。
夫は、郊外から都心まで電車で通勤し、休日には、家族でレジャー施設へ遊びに行くライフスタイル。
今では当たり前にみられる光景は、この頃から始まった。
その先駆けとなった、後楽園ゆうえんち(現・東京ドームシティアトラクションズ)が生まれたのは1955年の今日。
後楽園ゆうえんち(現・東京ドームシティアトラクションズ) (画像=写真AC)
後楽園ゆうえんちの経営母体である、後楽園スタジアム(現・東京ドーム)は、「都会に住む子供たちのためのスポーツランドを作りたい」と構想を抱き、当時の後楽園球場周辺に複合レジャー施設の建設を始めた。後楽園ゆうえんちは、その構想の中核を担う施設であった。
都心部のため、土地価格も高く、地方の遊園地のように広大な土地を利用した営業は望めない。
そのため、アトラクションを立体化、機械化させることで空間を利用した「都市型遊園地」という発想にたどり着いた。(『月刊レジャー産業資料』より)
後楽園ゆうえんちは、ジェットコースターを日本で初めて設置した遊園地である。
そもそも、ジェットコースターとは、和製英語であり、英米での名称はローラーコースターだ。
ゆうえんちが完成する2年前、1953年のことだ。
東京都文京区にアメリカの移動式遊園地である「コニー・アイランド・ショー」がやってきた。
特に人気を集めたアトラクションは、当時日本にはなかったローラーコースターである。
この光景を間近で見ていた担当者は、スピードとスリルに重きを置いたアトラクションを遊園地の目玉にしようと思いついたのだ。
名前は、ジェット機にちなんで、ジェットコースターと付けた。
ここから、ジェットコースターという名称が一般化していったのだ。
絶大な人気を誇った後楽園ゆうえんちも、ある「黒船」の来襲により、入場者数が減少する。
1983年の東京ディズニーランド開園である。
打開策として、デパートの屋上で行われていたヒーローショーを園内の大きなイベント会場で行った。これがヒットし、入場者数も以前の水準まで回復していった。
今でも、伝統的に行われている「戦隊シリーズ」「仮面ライダー」の特撮ヒーローショーの始まりである。
現在は、東京ドームシティアトラクションズと名を変え、ショッピングセンターや温泉施設などを複合し、園内も入園無料のフリーゲート化。アトラクションごとに料金を支払うシステムに変更した。
時代に合わせて、アトラクションやシステムを大幅に変更する決断力。
都市型遊園地のパイオニアは、変革を求めて新しいサービスを提供し続ける。