6月18日はブラジル移住の第一陣「笠戸丸がブラジルのサントス港に到着」した日だ。
日本の人口減少が止まらない。6年連続で減り続け、2008年から約110万人が減ったという。
あわせて空き家の増加も問題になっており、平成25年の総務省調査によると820万戸の家に住み手がいないという。この事態をうけ、日本での移民受け入れ議論も活発になっている。現状、政府は移民を認めていないが、実態としては外国人労働者が増え続けており、現実が先行している形だ。早急な対応が求められているのは間違いない。
しかし、歴史に目を向ければ、かつての日本は労働者を移民として海外へ送り込んでいたのだ。
100年前の日本人から見れば、人口減による亡国論がまかり通るなど信じられない話しだろう。
1908年の6月18日、一攫千金を夢見るブラジル移民781人を乗せた笠戸丸がサントス港に到着した。
日本人のブラジル移住計画は笠戸丸以前から話題に上がっていたという。
当時、ブラジルでは奴隷解放によって、コーヒー豆生産の労働力が不足していた。
一方の日本では戦争からの復員などがあり、労働力が余っていた。すでに貧困層が出稼ぎ目的で海外移住を行うなど、国内の労働場所不足に窮していたのだ。
このような経緯から、ブラジルが日本人の移民受け入れを表明したのだ。
しかし、日本人より先に渡っていたイタリア人移民が反乱を起こし、この移住計画は一旦頓挫してしまった。
そこで、移住計画復活のために奔走したのが、民間の移民会社である皇国殖民合資会社の水野龍だ。
事態を受け、すぐにブラジルへ向かい、サンパウロ州政府と移民の契約を締結したという。
日本国内での移民団の募集は、条件が「家族単位の移住」と厳しかったため、当初は不調だった。
仕方なく、「3年もブラジルで百姓すれば一財成して日本に帰ってこれる」という宣伝文句で人数をかき集めたという。
笠戸丸 (画像=iStockより)
いざ、ブラジルに向かって出航
1908年4月28日に移民船・笠戸丸は神戸港から遠く地球の裏までの航海に出た。
シンガポール等を経由し、ブラジル・サントス港に到着したのは6月18日だった。
宣伝文句を信じた移民団は、一生懸命働いて金を稼ぎ、すぐに日本に戻るつもりだったが、現実は全く違っていた。
つい先日までコーヒー栽培は奴隷によってまかなわれていたのだ。
当然のように、低賃金で過酷な労働が課され、居住環境も劣悪だった。奴隷とそう変わらない生活を強いられたのだ。
家屋は農場にこしらえられた掘っ立て小屋で、床板すら無かったという。これは、当初、日本国内での移民集めが上手くいかず、計画よりかなり遅れた出航であったことも影響している。日本人移民の受け入れを予定していた農地はすでに、他国人を雇用しており余剰が無かったのだ。結果、下調べをしていない耕地に送り込まれる手違いが起きたことも、日本人移民が過酷な環境に放り込まれた原因の一つであった。
この劣悪な環境のため耕地から夜逃げする日本人が相次いだ。彼らは帰国することも出来ず、鉄道工事や大工、使用人として働いたという。全移住者の中でコーヒー園に定着したのは、全体の1/4のみだったというのは、歴史の間に埋もれている真実だ。
コーヒー農園 (画像=pixabayより)
この中で、逃げ出した日本人同士が資金を出し合い共同で農地を取得。農業組合を形成していく動きも生まれた。このような日本人の農地がいくつも作られていき、ブラジルで経済的に成功していったのだ。
その後は、現地で出生した子達の教育に力を入れ、現在ではブラジルで多くの日系人が活躍している。「日系人は優秀で、弁護士や医者といった高収入の職業に就く」とブラジル社会で認識されるまでになった。
笠戸丸に乗りブラジルへ旅立ち、掘っ立て小屋から這い上がってきた祖先たちが持っていた不屈の精神があったからに他ならない。
100年前に異国の地に骨をうずめた、日本人に学ぶものは多い。
敬称略