6月10日は「投げる不動産屋」と評された桑田真澄投手が「メジャー初登板」した日だ。
桑田は2006年のシーズンオフに、20年所属した読売ジャイアンツを退団し、38歳という年齢でメジャーリーグに挑戦することを表明した。
同年12月20日ピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結ぶことを発表し、翌春には招待選手としてキャンプに参加、開幕メジャーを目指した。
しかし3月26日、ブルージェイズとのオープン戦に登板した際、ベースカバーに入ろうとしたところ、球審と衝突。右足首靱帯断裂というケガに見舞われた。
年齢からいって復帰も危ぶまれたが、チームの後押しもあり、懸命なリハビリを続け、その年の6月9日にメジャー昇格。翌10日のヤンキース戦でメジャー初登板を果たした。
39歳のオールドルーキーは、夢を叶えたのだ。
しかし、翌年の2008年パイレーツの戦力構想から外れ、3月26日に引退を表明した。
華々しい実績とは別に、常にスキャンダルがついて回った野球人生だった。
「投げる不動産屋」初出の新聞記事 (画像=リビンマガジン編集部撮影)
球界一の理論派に似つかわしくない金銭トラブル
桑田が、斎藤雅樹、槙原寛己らと巨人の「先発三本柱」として活躍していた時だ。
89年7月日刊ゲンダイに「発覚!!投げる不動産屋 桑田にまた新事実」と題されたスキャンダル記事が載った。
この頃、桑田は自身の個人事務所名義で、川崎や三軒茶屋などで投機目的の土地やアパートを買い漁っていたとされる。実際に取引を行っていたのは、桑田の姉と結婚した義兄だったが、見出しになるのは巨人軍の18番だった。
「ぼくは個人事務所をつくった。経営は義兄に任せている。その運用を家族に任せているだけのこと…」(週刊現代・2005年3月26日号)と語っていたというが、真相は藪の中だ。
ジャイアンツのエースに対する注目度は、今のそれとは比較にならないくらい高かった時代だ。結果として桑田は種々のスポーツ紙や週刊誌につけ回されることとなる。
この頃から、球界一の理論派には似つかわしくない金銭トラブルが多数報じられていく。
桑田がスポーツ用品メーカーの担当者に裏金を要求したという疑惑もその一つだ。
90年に発行された暴露本に端を発した野球賭博疑惑では、桑田が知人に球団の極秘事項である先発投手の登板情報を漏洩。見返りに金品を受け取っていたとされた。桑田は否定したが、1ヶ月の謹慎と1000万円の罰金という重い処分が下された。
さらに、バブル崩壊で、桑田名義で購入していた不動産が膨大な損失を出したという。当時の発表で桑田が負った債務は13億円という巨額なものだった。
そして、その負債を巨人軍が肩代わりし、完済するまで退団できない密約を結んだと囁かれていた。この密約に関しての真偽も定かでは無いが、マニアとも言われるほどメジャー思考が強かった桑田が、事実上の戦力外になるまで巨人に在籍し続けたのは事実だ。
桑田がメジャーで初登板した際にこう言った。
「きょうは、『うれしい』しかない。夢を実現するチャンスをいただけて、心の中で野球の神様に『ありがとう』と言いました」。
ケガやスキャンダルに彩られながらも、自分の「野球道」を進んできた桑田の素直な心情だったのではなかろうか。
11年前の今日は「投げる不動産屋」と揶揄された、投手・桑田が夢を叶えた日だ。
敬称略