本日、6月4日は「公営住宅法」が公布された日である。
この法律は、国と地方公共団体が協力して、低所得者が健康で文化的な生活が送れるように住宅を整備し、低家賃で貸し出すように求めたものだ。
この法律によって、次々と住宅が建設された。団地の誕生だ。
1951年に公布されたこの法律は、戦後の住宅不足を補うために作られた。終戦後、空襲被害で住宅が破壊されたうえ、海外からの引揚者が殺到し、都市を中心に圧倒的な住宅不足に陥った。国庫補助による簡易住宅建設の必要性が叫ばれていた。
住宅不足は甚大であり、到底すぐに解消できるものではなかった。そのため、長期的な取り組みが必要で後継住宅法が立法化された。
このようにして誕生した団地だが。世代によってイメージが大きく移り変わっている。
1950年代に現在のUR(都市再生機構)の前身である日本住宅公団が建設した団地は、当時の流行の最先端を集めていた。鉄筋コンクリート造のモダンな建物で、内装もダイニングキッチンなど備え付いており、庶民からは羨望のまなざしを受けるものだった。運よく入居ができたものは、「花の団地族」と言われたという。
(画像=写真ACより)
公営住宅や公団住宅は、50年代後半から70年代にかけての高度経済成長期に大量に建設が行われた。公団住宅は都市近郊に数千戸もある大規模団地で、いわゆるマンモス団地と呼ばれるものだ。
都内では、総戸数10,170戸を誇る高島平団地が有名だろう。
しかしその後は民間の建築会社による住宅供給も増え、団地の地位は低下していく。
広い間取りを持った一戸建てや、より良い立地にあるマンションなどに若い世帯は移り住んでいく。いまでは、団地内の取り残された老世帯の孤立が問題視されている。
そんな団地だが、近年、再び注目されている。ネットで 団地萌えという言葉が生まれているように、無機質でノスタルジックな風貌が若者には新鮮に映り、人気を集めている。写真を集めたサイトもたくさんある。
団地に住んだことがなくても、眺めていると、少し感傷的な気分になると語る人も多い。
それは団地が、失われた成長期を象徴するものだからかもしれない。